『分かちあう豊かさ』 住職法話 寺報平成25年3月号


 昨年の10月、ネパールのチベット難民キャンプを訪問しました。ネパール定住のチベット難民の方々へ支援を始めてから25年以上経過しています。今までの支援の運用状況を確認したり、新しいプロジェクトの話し合いなどが訪問の目的で、この度のネパール訪問は4年振りでした。旧知の方々に再会するのも楽しみですが、チベット難民の子供が通っている学校を訪問して交流するのがとても楽しみとなっています。今回、カトマンズ郊外のゴカルナという所にあるナンギャル高等学校を4年振りに訪問しました。着いたときが丁度昼食時間前でしたので、迎えに出て下さった校長先生が、「生徒と一緒に昼食を食べましょう」と、体育館に案内して下さいました。体育館に入りますと、男子生徒がちょうど昼食の入ったトレイを額の近くに上げて食事を始めるところでした。(急いでカメラを向けて写真を取ることが出来ました)体育館では私たちの座るところがなかったので、別室で校長先生と一緒に生徒たちと同じ食事を頂きました。校長先生に、生徒たちが食前にトレイを頭の上に上げていることを尋ねてみました。「一番大切な自分自身のいのちを支えて下さっている方々、そしてこの学校をサポートして下さっている多くの外国のNGO や諸団体に感謝の気持ちを持ち、また食物にも感謝の思いを持ってトレイを頭の上にあげていただいております」と話しておられました。

 4年前にこの学校を初めて訪問した時に、玄関入口の正面の壁に「If you want to be happy, givehappiness to others」というモットーが掲げてありました。昨年訪問の時にはもうありませんでしたが、当時の校長先生(すでに亡くなっておられ、構内に記念碑が建ててありました)がモットーの意味を次のように話されていたことを思い出しました。「他者の幸せを思うことが、自分を幸せにしていく近道です」と。この言葉を逆に考えますと、自分のことばかり考えていることは、他者からの温かい思いやり、願いなどに思いがわからない、それは不幸なことだということでしょうか。全寮制の学校の中で共同生活を続けていくためには、自己中心性が最も弊害になるので、お互いを思いやる心を育てていく教育方針だと思いました。

 今日本は飽食の時代で、捨てられる食料が多い社会に私たちは生きています。安定した社会に生きることは大変ありがたいことですが、あまりに美食を追求すること、食料を無駄にすることで、食事に感謝して頂く心を失ってしまうことは次の世代の成長に影を落とすことになりかねません。

 日本の歴史をさかのぼると凶作飢饉の年が何度もあります。親鸞聖人のご在世、鎌倉時代でも大変な飢饉がありました。佐貫(群馬県)では民衆に懇願されて雨乞いで浄土三部経を千回読誦されようとしたという学者もいます。聖人はこれを自力の行と気づきお勤めを中止されたとはいえ、聖人が自力の行をされるほどの民衆の困窮が想像できます。それから約20年後、異常気象で人口の三分の一もの人が餓死した飢饉もあったようです。この時代の飢饉で食料が不足し飢えていく人々を救おうと苦悩されている親鸞聖人が直面されていた当時の自然災害は、為政者もなすすべがなく、また個々のどのような思いやりも無力に化してしまうほどの大きなものであったと想像できます。

 今の時代、地球レベルでは食糧不足で苦しむ国や地域があるのも確かです。また自然災害を克服出来ないで起こる政治的被害で苦しむ人々も多いことです。そうした方々へ思いを致しても、個々の人間には限界があります。親鸞聖人は鎌倉時代に生き抜かれ、末通らぬ人の無力さに浄土の慈悲に救われていくことで、「いのち」の本当の救いを共有していく生き方を実践されていたことでしょう。そのお姿をイメージしてこれから社会に対して念仏者としての行動の規範にしたいと思います。分かちあうべき「真実のおしえ」を共に共有できる仕合せを発信できる西楽寺でありたいと思います。