時田氏の文章は長いので、短く要約します。――信州出身の小林一茶、子供相手の童謡詩人、終世弱きものの立場にたった一茶、しかし親の遺言だと言って実家の財産を継母・弟と争う「強欲」な面もある。一茶の研究の第一人者の矢羽勝幸氏は「彼を理解するには、別な見方、つまり一茶が浄土真宗を信ずる『信仰の人』だった点に注目すべきだと思います。――という内容でした。その文章の中に一茶の俳句を一句紹介しています。
「やせ蛙負けるな一茶是にあり」苦戦しているやせ蛙に「負けるな」と声をあげてしまう一茶の「弱きもの」の側に立った一茶の根底にあるものは、「優しさも欲も、あるがまま・・」といった一茶の生き方が如来の他力に任せて生きた篤信者の姿だと主張されています。
私は、小林一茶が「信仰の人」というよりは、継母や弟と財産を争ったことだけでなく、50代には若い奥さんに子供を産ませ、病死していく悲しみや苦悩の中に俳句を詠んだ人という印象がありました。それから一茶についての著作や研究書読んでみようという気持ちが起こり、入手できるものを購入、あるいは図書館に行って色々読んでみました。
一茶の俳句を全部読んだわけではありませんが、「念仏者」であったことを醸し出す俳句はあるようです。また一茶の研究者である矢羽勝幸氏の著書に次のようなエピソードがありました。文化10年に門人が住職を勤める経善寺にて芭蕉忌を催した際の一文に「わが宗門にてあながち弟子とは云わず、師とは云わず。如来の本願を我も信じ、人にも信じさすことになれば、御同朋御同行とて、平座にありて讃談するを常とす。いわんや俳諧においておや」(『信濃の一茶』P74)と語ったといいます。そこには浄土真宗の教えにある平等性を、俳諧の人間関係に求めている一茶がありました。親の財産の折半を迫った強欲な人間であったと思えないような姿です。
一茶の実家がある村は浄土真宗の門徒が多く、父親も熱心な門徒でした。そうした父親の遺言は、弟仙六(後に弥兵衛)との財産を折半することでありました。父親が財産を平等に分けるように望んだことは念仏者としての生き方を窺うことができます。さりとて一茶も弟も人間。俗の中に生きているので、結局一茶兄弟は師匠寺の住職の調停によって最終的には和解したということです。
この師匠寺は長野県に現在もあります。いずれ訪ねてみたいという気持ちがおこり、とりあえず突然にお電話をして聞いてみました。ご住職は親切に色々教えてくださいました中で、特に印象深かったのは、「一茶が念仏者に育ったのは、篤信家の父親以上にお念仏を喜んでおられた祖母の影響が大きかった」ということです。三歳で母を亡くした一茶に継母にはない祖母の優しさが注がれていたのでしょう。
念仏を唱えながらも、欲の中に生きる・・、52歳で結婚し子供と死別、さらには妻も先立たれます。悲しみの中で、奮い立ちながら人間ありのままを生きていく一茶の姿を色々想像してみたくなります。この一句もそうしたことのできる句でした。
「やせ蛙・・」という句は、たくさんのオスがメスを奪いある蛙合戦で、苦戦するやせ蛙一匹。弱きものに「負けるな!」と心の中で声をかける一茶の優しさをあらわしているとされている一句です。しかし、別な解釈もあるようです。亡くなっていく我が子(やせ蛙といって)に心を向けた句だという説。確かに文化13年(1816)4月14日に長男千太郎が誕生し、一ヶ月もたたずに5月11日に亡くなっています。この句が詠まれたのは4月20日ですから、そうした説もありうることでしょう。力なく「いのち」を終えようとしている我が子を前に苦悩している一茶が窺われます。
でも、こんな想像もしてみたくなります。一茶自身をやせ蛙として、別れの悲しみや苦悩に中にある一茶にたいして、「一茶、負けるなよ!わたしが(阿弥陀如来)がここにいるよ!」と阿弥陀さまから呼びかけられ、生きる力をもらって自分自身を奮い立たせている・・、そんな解釈は無謀でしょうか・・・・。念仏者の一茶が「阿弥陀さまのお慈悲」の前に生きる力を得て淡々と生きていた姿が、それから後の句にも窺われます。
「ともかくも あなた*任せの 年の暮れ」(『おらが春』1819年12月29日作)
(註* あなた:阿弥陀さま)